知らない傷痕


 指が、這う。唇が触れる。掌が撫でる。舌がたどる。
 しつこいくらい穏やかに繰り返される愛撫に耐えきれず身じろぐと、気配で彼が笑ったのが分かった。
 何が楽しいのか、と思う。おそらくその辺りの戦争経験者と比べても軽く引かれる程度には傷だらけの身体。
 刀傷、だけではない、裂傷、打撲、挫傷。乱暴に縫い合わされたせいで不格好にひきつったもの。どてっ腹には銃創。腹から背まで貫かれたあと。それらを覆うようにまた幾筋もの傷痕が重なっている。
 そのあとをただ、たどっていく。
 元々ねちっこい男ではあるが、――自分が厄介事に巻き込まれ、血の臭いをさせているときなどは、特に。
 最も真新しい傷はこれだろうかと、シーツを握りしめていた己の手の甲を見やる。盛り上がった新しい肉を見せているのは、骨まで届いた鉄の楔によるものだ。斬ることに特化した忍の道具。それ以外にもまあ、胴体やら脚やらになかなか大きな怪我をしている。その傷をつけた、月に焦がれ続けた蜘蛛とその月を想う。
「――うァ、」
 突然肩甲骨の縁を吸い上げられて、短い喘ぎが漏れた。
「何、考えてやがる」
 低く吹き込まれた声にぞわりと走るのは、認めたくはないが確かに悦びだ。それを悟られるのはどうにも悔しくて、努めて平静な声を出す。
「…さあな」
 男はふんと咽喉を鳴らした。
「甲斐の無え奴だ」
「無え、のは、てめえだろ。しつっこいんだよ、いつも…」
 彼は概して前戯が長い。自分を高めるために、ゆっくりと、丁寧に行うことが、多い。てめえが堕ちてくのを見るのが楽しい、と悪趣味なことを言われて以来、意地でも感じてやるものかと思っているのだが、根を上げるのは大抵こちらだ。不満である。
 そんな葛藤を知ってか知らずか、耳元で「言いやがる」と囁いた男は、愛撫を下へとずらしていく。わき腹を舌でなぶって、その場所にある傷に軽く歯を立てられた。弱い部分を攻められて身体が竦む。
「っおい、や、め――あぅ、」
 反応してしまったのに気をよくしたのか、胴体をひっくり返されて、そこばかりを重点的に攻められてしまった。たまらずに声にならない悲鳴を上げる。
「ぁ、ば、かやろ、そこ、ばっか、ぅあっ――」
 耐えきれず、腹にうごめく黒い頭をひっつかむ。腹が立つほど指通りの良い黒髪を遠慮なく掴んで引っ張ってやった。
「痛えよ、アホ」
 うざったそうに顔を上げた男は、無造作に髪を掴んでいた手を引き剥がし、――そして、そのままそこにくちづけた。
 ざり、と手の甲の、治りかけている傷に這わされた舌の感触に、なぜだか言い様のないものが走って、思わずそれを振り払った。
 は、と気がつくと、彼はわずかに目を見開いていた。
 思わずいたたまれなくなって目を逸らす。
「しつけえ、っつってんだろ。犬か、てめーは」
 誤魔化すように言った。
「…別に喰いちぎりゃしねえよ」
 少しの沈黙の後、ひどく穏やかに覆い被さってきて、そんなことを言う。
 いきなりなにおまえきもちわるい、と言う前に、唇を塞がれた。
 ゆるりと口腔を探られている間にも、愛撫は止まない。見えてはいないだろうに、器用にも傷のある場所に触れていく。それらに感じてしまうのだと、とうの昔にばれているのだ。
 …この男はもう、自分の傷を全て知り尽くしているのではないかと思う。大も小も。新も古も。
 けれども最もよく触れてくるのは、おそらくあの傷、だろう。この男がつけた、おそらく唯一の、傷。
 肩に一筋つけられたそれは、上から幾度も似たような傷を受けて、大分目立たなくなっている。只でさえ、この男の気性を表すような切り口は、随分と思いきりの良いきれいなものだった。
 悪意や憎しみ、怒りや悲しみではない、純粋な敵意による、まっすぐな傷痕。
 一度二度三度と上から重ねられた傷。うっすらと、ともすれば見落としてしまいそうになるほどになってしまっている傷。
 けれども男は、何の躊躇もなく、男がつけたその傷に触れてきた。
 ――ぴくりと反応してしまうのは、自分自身もそれをわかっているからだ。
 斬られた傷を斬られた男に触れられている。ひどく無防備な行為に、そしてそれを許している自分に、呆れてしまう。
命すら狙ってきた相手に背を晒して、人が日常生活で持っているだろう、最低限のテリトリーの侵略すらも許して。
 男はたどろうとしている。この身の、歴史を。それはおそらく、自分にとっては魂のような何かだ。そして、それが恐ろしいのかそうでないのかも分からないまま、身を委ねている。
 ただ、男がこうしていても、自分の本当のきずあとたちを男が知ることはないだろう。
 自分がさらけ出さない限り。
 または、男が自らの持つあらゆる力を行使して、強引にこじ開けない限り。
 …けれども男はそれを実行しはしないだろう。そういう人間なのだと、知っている。そして、――それに確かに甘えている自分のことも。
 自分がさらけ出さない限り、男はたどり続けるだろう。この男はしつこいし、しぶとい。そしてなにより、ひどく――あたたかいやつ、だから。
 出来うることならもう少し、この温もりを感じていたいのだ。





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間に合わなかったけれども銀さんお誕生日おめでとう。

(10.10.11)

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