夢路のもりびと


不意に、神楽は目を覚ました。
けれどもそれは酷く不完全な覚醒で、 水に溶けてたゆたっていた意識を掌でゆっくりと掬い揚げられたような、 掌に入りきらなかった己がまだ水の中に残っているような、半分夢の中に居るような感覚だった。
此処は何処だろう、と神楽は思った。
目を開けようとしたが、瞼が重くて持ち上がらない。 身体を動かそうとしても同様で、まるで密度の高い液体に沈んでいるようだ。 意識だけがふわふわと浮いている。

――ぎんちゃん、

寄る辺を求めるように、大好きな人の名前を呼ぶ。けれども声は出ない。
しかし、自分以外の誰かを思い浮かべた事で、連鎖的に今の状況を思い出す事には成功した。

今日はお通のコンサートだとかで、新八は朝から一日居ない。 銀時は朝食を食べた後、今日は開店休業だと称してぶらりと外出して行った。 大方いつもの全く採算のとれない銀色の玉の遊びだろう。
自分はといえば、定春と共に散歩に出かけ、ひとしきり遊んでから帰ってきて、 程良い疲れに眠気を誘われてソファに横になったのだった。
だから此処は万事屋のリビングで、自分は玄関から入って奥のソファに横たわっているのだ。 そこまで思い出して、体温で温まったソファの感触が初めて意識できた。 同時にふるりと身体が震える。肌寒い、と感じた。
何かかける物を持ってこよう、と思い立った。しかし依然として身体はひどく重く、起きることが出来ない。 せめて身体を丸めようとしたが、これも上手く行かない。

身体が動かない、寒い、ひとの気配が無い――

どうしようもない不安を呼び、それが膨らんで目頭が熱くなった時。

かん、と遠くで音がした。

かん、かん、かん、と少しずつ大きくなる音――あれは万事屋への階段を上る音だ。
銀時が帰ってきたのだろうか、と思う。新八ではない。彼はもっと軽い音を立てる。
銀時であれと、神楽は半ば願った。彼の人の、いつも大きくて少し温度の低い掌で、頭を撫でて貰いたい。 そうすれば自分は柔らか安らかに、また眠りの縁へと落ちれるだろう。
しかし彼女の願いとは裏腹に、玄関の前まで来た足音は、ピンポン、という間の抜けたチャイムに変わった。
違う。彼ではない。
では誰だろう。僅かに身体が強ばる。
間を空けて二度チャイムが押されたが、当然反応は無い。 今度は確認するように、コンコン、と控えめなノックがされる。
丁寧なノックをする、不審者ではないのかも知れない、依頼人ならば自分が応対しなければ、 知人ならば、例えばいつも鬱陶しいくらい髪の長い青年ならば、土産のみを強奪して放り出さなければ。
そう思ったけれども、やはり身体は動かない。
もう一度、今度はやや強めのノックが響く。 ガシャガシャと、引き戸の硝子が音を立てるのと同時に、声がした。

「オイ、居ねえのか」

男の声だ。よく通る、低い声音。常は怒鳴ったり声を荒げたり激する事の多い、特徴のあるバリトン。
アイツだ、と神楽は思った。
どうして此処に、銀時と喧嘩でもしにきたのだろうか、仕事はどうしたゼーキンドロボー、
声に出せない問いを重ねていると、がらりと戸の開く音がした。じゃり、と軒先を踏む音も聞こえる。

「…たく、不用心だな」

途端近くなった声には呆れの色が含まれている。
しばらくの無音の後、廊下の板が軋む音が続いた。
勝手に入ってくるなと抗議したかったが、やはり、声は出ない。

「チャイナ?いるのか?」

何で自分を呼ぶのだ。…ああそうか、玄関に傘と靴があったからだろうか。
男――土方が廊下を抜けてリビングへ辿り着き、止まった。
そして僅かに戸惑いを見せた後、足音を忍ばせてソファへと近寄る。

「…寝てんのかよ…」

本当に不用心な、と土方は溜息を吐いてひとりごちた。 余計なお世話だ、と神楽は心の中で意地を張る。 自分をどうにか出来る相手などそう居ない。そもそも、隣の部屋には定春だって居るはずなのだ。
そう、定春が居るはずだ。何を怯えていたのだろう、自分は一人ではなかったのだ。
ほっとするのと同時に、浮かんだばつの悪さを誤魔化すために、意識を闖入者へと向けた。
土方は手に持っていたらしい荷物をテーブルに置いた。 音からして紙袋だろう、ちゃんと土産は持ってきたらしい。 きっと酢昆布も入っているはずだ。取り合えずそこは認めてやる。
何処からかくう、と鳴き声がした。彼の気配に気付いたのだろう。

「…あぁ、いたのか」

悪いな勝手に入って、と続ける。全くだ、私にも言え、と思う。
勝手に入ってきておいて住人に挨拶もなしとは許しがたい、後で家主にちくって一緒に制裁を加えよう。 自分が身動きが取れないでいるというのに悠々としているのも腹立つ。 金縛りにあったのも、不安になったのも、全部コイツのせいではないかと思い始めた。 半ば八つ当たりの罵詈雑言を並べる。
土方はというと、そんな神楽の心情などつゆ知らず、 しょうがねぇな、と呟いて、何処へ行くのかおもむろに踵を返した。
古い屋奥はどうしてもぎしりと床板が鳴ったが、 それでも極力自分を起こさないように配慮して移動しているのが判ったので、 頭の中に渦巻いていた文句がしゅうと鎮まった。


神楽は、別に土方の事を嫌いではない。
かといって好きなのかというとそんな訳でもない。
ただ、己を取り巻く――否、彼女が最も信を置いている万事屋の主人を取り巻く、 縁ある一人として認識しているだけだ。 但し彼とその仲間、特に神楽にとっては彼の部下である栗色の髪の少年は、 縁は縁でも腐れ縁というくくりではあるが。
彼女にとっての彼の認識は、喧嘩してばかりの駄目な大人、ニコ中、マヨラー、 瞳孔開いてるくせしてヘタレ、かっこつけ、トッシーは面白いから割と好き、 等という至ってどうしようもないものであったが、 それでも、銀時が認めている人、強い信念を持っている、義理堅く新八並に真面目、 というくらいは好意的な感情を持って認識している。
実は意外と世話焼きで、女子供には甘いと云う事も。


土方の気配が静かに戻ってくる。
ソファの側まで来ると、手にしていたものを広げ、それを丁寧に神楽の身体へとかけた。
身に馴染んだ感触――自分の毛布だ。
部屋まで行って取ってきたのか。何故自分の寝床まで知っているのだろう。
再び沸き上がった疑問はしかし、彼の次の動作であっけなく中断された。

毛布を肩まで引き上げた手が、しばしの逡巡の後、顔にかかっていた髪に伸ばされたのだ。
下ろした桜色の髪は、寝相と体勢のせいで顔全体を覆ってしまっていた。
それをそうっと、無骨な指がかき分けて払う。
その手つきが存外優しくて、神楽は少し驚いた。

頬に触れた指先は節張っていてかさついている。おとなの、おとこのひとのて。 そして、彼女が一番よく知る、今の己の保護者の掌より幾分、体温が高かった。 更に、既に染み着いているのであろう、煙草の残り香がする。
手は、最後に目元を隠していた髪の毛を耳にかけ、やんわりと頭を撫でた。
それは、銀時の慈しむような、それだけで心が温かくなるような穏やかな触れ方ではなくて。
繊細な砂糖細工でも扱うかのように、妙にぎごちなく、けれどもとても優しく。 安心するような、しかしくすぐったいような、そして何処か、懐かしい感覚だった。

どうして、懐かしいのだろう。
自分はこの手と同じものを知っている。何だろう。

ぶっきらぼうな撫で方。
煙草の匂いが鼻をくすぐる。

ああ、そうだ、

これは、


「…パピー…」


手が止まる。微かに息を呑むような気配が伝わってくる。
うとうととした微睡みの中、止まってしまった温もりが妙に寂しくて、 むずかるように縋るように、掌に頭を押しつけた。

――するとその気配は、そのまま酷く、穏やかな雰囲気へと変わった。

ふわり、と額に掌が添えられる。
髪を後ろへ流すように、ゆるゆると撫でられる。幾度かそれを繰り返す。 下ろされた髪に耳の上から指を通し、手櫛で梳かれる。 寝癖を撫でつけて、項を包まれる、肩を背を、毛布の上から大きく暖かい掌で辿られる。
その暖かさに、ふにゃりと身体から力が抜けていく。 そこで初めて、自分がずっと緊張していたのだと気付いた。
それが判ったのだろう、穏やかな気配に、微笑んだような色が混ざった。
あの男がそんな風に微笑うなんて、どんな顔をしているのだろう、 というか子供扱いされているようで気に食わない、 そう思っても、あやすように繰り返される愛撫が心地良くて、ゆっくりと思考に霞がかかって行く。
沈んでいく意識は、けれどもとても暖かい優しさに包まれていて、神楽はひどくしあわせな気持ちになった。

そしてそのまま、柔らかに眠りの縁へと落ちて行った。





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万事屋一家と土方さんしりーず と同系列と思って下さい…
何ナチュラルに土産まで持って来てんだこの土方さん。

銀さんは、お母さん系の愛で方。
やーらかくって、いいにおい(絶対菓子の匂いだよな)して、思わず甘えたく感じ。
本当に子供が可愛くて大切で、慈しむイメージ。
土方は、お父さん系の愛で方。
ちょっとぶっきらぼうで、煙草とかぱりっとした仕事の匂いとかして、くすぐったくなる感じ。
小さくて細い子供の扱いにちょっと困ってるイメージ。

にしても完全に親子化したうちの土神…
あれえ?

(08.03.08)

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