呼吸





嬉しそうに去っていく教諭を複雑な気持ちで見送りながら、四月一日はそっと息を吐いた。
ようやく普通に呼吸出来る様に成り、躯から力が抜ける。
アレ・・・『猿の手』から漏れ出る『気』は空虚な禍々しさを持っていて、 如何しても吐き気を抑えられなくて。
微かに脂汗の浮かぶ背をごまかす様に、ぶるりと身体を震わせた。

「大丈夫か」

不意に掛けられた言葉は抑揚の無いモノで。
眠そうな表情のまま、だが気遣う気配を見せながら、百目鬼が言った。

「・・・・・・あ、おう」

面食らって、ついストレートに応えてしまう。
ムカツクやつといえども、心配されての拒絶は難しい。
事実、嫌な気配は殆ど消えていたから、如何と言うわけでもないのだが。

「ぶっ倒れたりっするんじゃねーぞ」
「するか!大体てめーに心配なんざされたくねえよ!」
「今にも吐きそうな顔してたのは何処のどいつだ」
「んだと!?」

最早日課となっている二人の言い争いに、皆特に興味も示さず。
そうこうしているうちにチャイムが鳴り、二人は愚痴を言い合いつつ(四月一日が突っかかっていると言ったほうが正しいが)、 他の生徒と共に教室へと引き上げていった。










ぞく、



と、背中に寒気が走ったと思った時はもう遅かった。

最も、相手は自分に用があるのだろうから、逃げる意味もないのだろうが。

「今日和、バイト君!」

教諭が笑顔で声をかけてきた。

「・・・どうも」

言いながら、彼女を取り巻くどろりとした『気』に、自然と眉がよってしまう。
が、彼女は気にする様子もなく。

「あのヒトに御礼言っておいてね。『コレ』譲ってくれて有難う、って」

かしゃん、と取り出された筒に、四月一日は言い知れぬ悪寒を覚えた。

「あ、ハイ・・・」

思わず口元を覆う。
何時かの女性のように、段々と大きく強くなっていく瘴気。
嫌な思いが頭をよぎった。

「如何したの?」

流石に訝しんだのか、教諭がいくらか心配そうな声で問うて来た。

「・・・・・・いえ、・・・何でも。」
「そう?具合でも悪いのかしら」

教諭がぴた、と額に掌を当てる。 びく、と身体が強張ったのがわかった。





(・・・来るな・・・・・・・・・!)





途端に、体中が鉛のように重くなった。





「・・・・・・ッ・・・」

彼女を通して直接瘴気が纏わりついてくる。
額、首、胴、腰、腕、脚へ、まるで蛇のような動きで、心地よい場所を見つけたかのように、
水が河の流れに乗るかのように、ゆっくりと黒い『気』が身体を侵していく。
思わず下げた目線が、『手』をとらえた。



ことり、と音がした気がして、



・・・目の前が闇に染まった。



(ヤバ・・・っ)

意識が、侵食されて、塞がれる。

・・・・・・遠くなる。

まずい。このまま気を失っては、





呑まれる。













「おい」










唐突に、視界が戻った。

恐る恐る視線を上げると、くず折れた身体を支えるように、百目鬼が腕を掴んでいた。
・・・掴まれた場所から、瘴気が引いて行くのが判った。
糸が切れたように力が抜けて、そのまま百目鬼に体重を預けてしまう。

「大丈夫!?」

焦ったような教諭の声と、周りの生徒達のざわめきが、フィルターがかかったように聞こえる。
意識が朦朧として、状況把握が出来ない。
百目鬼は其の様子に微かに顔を顰めた。

「・・・保健室、連れて行きます」
「あ、そうね。お願いして良い?」

頷いて、百目鬼は四月一日を抱えるようにその場から立ち去った。












取り敢えず人気のない処に四月一日を座らせ、一息つかせる。
チャイムも鳴ってしまったので、誰か来る心配もない。

「気持ち悪い・・・・・・」

四月一日は肩で呼吸しながら、ぼそりとつぶやいた。

「・・・やっぱり倒れてんじゃねえか」
「・・・・・・うるせえ」

嫌味に反撃するだけの気力もない。
まだ悪寒が消えてくれなくて、四月一日は片手で口を抑えたまま、空いた手で肩を強く握った。
顔も上げずに小さく震えているのを見て、百目鬼は軽くため息を吐いた。

「・・・歩けるか」

僅かに首を振って、無理だと応える。
百目鬼は少し逡巡して、四月一日に負荷がかからないように抱き上げた。

「・・・っおい」
「大人しくしてろ」

頭がくらくらする。
其れが瘴気の残り香のせいなのか、身体が宙に浮いたせいかは判らない。
只、百目鬼の体温に触れて、少し呼吸が楽になった気がした。
よくよく考えてみるとかなり屈辱的なことをされているはずなのだが、四月一日は息が出来るようになった安堵感で其処まで頭が回らず。



漸く、体の力が抜けたのが判った。





生憎養護教諭は留守で、百目鬼は仕方なく四月一日を保健室の固いべッドに横たわらせる。

「・・・悪い」

かすれた声で言う四月一日の目を手で軽く覆って、百目鬼は一言寝ろ、と言った。

「寝るまで居てやる」

四月一日は微かに目を見張る気配を見せて、そして安心したように息を吐いた。

「だから、何で命令形なんだ・・・」





・・・寝息が聞こえて来るまで、たいした時間はかからなかった。










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